「賛美の内に入れられる」 07.07.29
詩篇146篇1節〜10
須賀工神学生
「ハレルヤ」から始まり、「ハレルヤ」で終わるこの
「ハレルヤ賛歌」は、正に賛美に満ち溢れた歌であります。
かつてユダヤ教において、この詩篇は、「朝の祈り」の
一部でした。神を力強く賛美する事から、一日が始まるのです。
そして、同時に、全てを神に委ねる一日、絶対的な信頼と
絶大な喜びに満たされて一日を歩む事も意味するのです。
このように賛美に満たされた日々を私達は送りたいと願います。
しかし、神の御前に立ち、現実を深く見つめ、更に私達自身の
「罪と死」の現実を深く思わされた時、素直に賛美が出来ないのが
事実であると言わざるを得ない。このような現実の中で、この詩篇は、
神の御業を力強く賛美と共に記しているのです。
喜びと賛美に満ち溢れた人生。それは、永遠に世界と歴史とを
支配される神だけを信じる事であると詩人は述べます。その神の
御前では、人間の権力は無に等しいのです。そこには本当の
救いの力はないのです。ただただ、神と神の御業を信じる事に
よってのみ、本当の喜びに満たされた歩みが与えられるので
あると述べるのです。
そして、その唯一の神の御業とは正に、救いの見出せない
人々に救いの御手を差し伸べる事。到底、喜ぶ事の出来ない
現実の只中にいる人々を救い出し、喜びに満たして下さる事。
これこそが、神の救いの御業であり、神の正しい働きであると
詩人は述べるのです。
私達キリスト者にとっての救いの御業は、正に十字架の死と
復活にあります。その出来事は、罪深さ故に、喜べない私達の罪が
驚くべき神の御業を通して赦された出来事です。
そして、その御業(みわざ)を見上げた時、私達はあのローマ兵
(ルカ23:44〜49)のように、ただ、ただ賛美する事しか出来ないのです。
そこにいるのは、罪人ではなく、新たな人。悲しむ人でなく、喜びと
賛美の内に入れられた人。
私達は、正にこの神の救いの御業によって、詩人よりも更に
大きな喜びと賛美に満ち溢れたの群れの内に入れられるのです。